近年、選択的夫婦別姓を求める声が高まり、企業の現場にもその影響が少しずつ及び始めています。「結婚後も旧姓で働きたい」という希望に対して、どこまで対応すべきか迷う実務担当者も多いのではないでしょうか。特に戸籍名と通称が異なる場合、雇用契約書や給与明細、社会保険手続きなど、実務上の判断が求められる場面は多く存在します。本記事では、企業が対応すべき人事労務の課題と、社労士と連携して整備できるポイントを解説します。
結婚後も、夫婦それぞれが自分の「戸籍上の姓」を維持することを可能にする制度です。現在の民法では、結婚する際に夫婦どちらかが相手の姓に改めなければならず、事実上「同姓」が強制されています。選択的夫婦別姓が導入されれば、夫婦別姓も選べるようになります。2025年現在、制度の導入には至っていませんが、議論は活発化しています。
法的には戸籍上の氏名を持ちつつ、日常生活や職場などで「別姓」を名乗ることです。企業では「結婚後も旧姓で仕事を続けたい」といった希望に応じて、社内メール、名刺、勤怠システムなどに通称を使うケースが増えています。選択的夫婦別姓制度とは異なり、現状の法律のもと企業判断で柔軟に対応できる領域です。
選択的夫婦別姓制度の議論は、1996年に法務省法制審議会が「民法の一部を改正する法律案要綱」を答申したことに始まり、日本で長年続いてきました。2025年時点でも制度化には至っていませんが、国連の女性差別撤廃委員会による選択的夫婦別姓制度への勧告を受けて国内でも注目が高まっています。実際、内閣府の調査では、「旧姓を通称として使用したいと思う」と回答した人が全体の43.3%にのぼり、特に30代では57.8%と高い支持を得ています。
出典:内閣府「男女共同参画社会に関する世論調査」
こうした社会的変化は、企業の現場にも少しずつ波及しています。結婚・再婚・事実婚などに伴い、「戸籍名を変えたくない」「仕事では旧姓を使い続けたい」といった社員のニーズが顕在化し、通称使用の申し出が増えてきました。特に女性の管理職や専門職では、旧姓での業績蓄積や人脈維持の必要性から、改姓による不都合を感じる声も少なくありません。
さらに、同性パートナーや国際結婚など、家族のかたちが多様化する中で、企業側がどこまで個人の選択に配慮し制度整備を行うかは、従業員からの信頼やエンゲージメントにも大きく影響します。その反面、対応の不備によってトラブルが生じたり、差別や不平等と受け取られたりするリスクもあります。
このように、夫婦別姓をめぐる制度議論は単なる法改正の話にとどまらず、現場の人事労務対応力や企業文化の成熟度が問われるテーマへと広がりつつあるのです。
それでは、実際に社員から「旧姓を使いたい」と申し出があった場合、企業はどう対応すべきなのでしょうか。通称使用の扱いは、実務上の判断を迫られる場面が多く、人事労務担当者にとっては具体的な運用ルールが求められます。
雇用契約書や労働条件通知書など、法的効力を持つ書類は原則として戸籍名で作成する必要があります。一方で、社内での表示名や名刺、メールアドレス、SNS、社内報などでは、通称を使用するケースもあります。
このような「公文書は戸籍名」「業務表示は通称」という状況が続くと、社内外の混乱や誤認を招く可能性が出てきます。例えば、取引先との契約書では戸籍名を使わざるを得ないものの、日頃のやり取りは通称で行っていた場合、「別人」と認識されてしまうリスクがあります。
社会保険、労働保険、住民税・所得税などの行政手続きでは、すべて戸籍名が用いられます。仮に給与明細や賃金台帳で通称が使用されていた場合、次のような問題が発生する恐れがあります。
・源泉徴収票とマイナンバー情報の不一致による照合エラー
・年末調整や法定調書での記載ミス
・行政機関や金融機関からの問い合わせ対応負荷の増加
これらは事務的なミスだけでなく、個人情報保護や法令遵守の観点でもリスク要因となり得ます。
勤怠管理や給与計算、評価制度などを支える人事システムにおいて、通称と戸籍名が混在すると、データ整合性の維持が難しくなります。特にクラウドシステムでは、名前の変更や二重管理が技術的に難しい場合もあり、運用ルールが整備されていないと現場に混乱を招きます。例えば、freee人事労務では通称使用が可能ですが、その他すべてのクラウドシステムも設定可能というわけではありません。
また、制度として明文化されていない場合、「通称使用を許可するかどうか」が実務担当者の裁量に委ねられ、不公平感や対応のばらつきを生む原因になります。
通称使用にまつわる混乱を回避し、社員が安心して働ける環境を整えるためには、企業としての制度整備と実務運用の明確化が必要です。以下のような対策を講じることで、トラブルの芽を事前に摘むことが可能です。
まず取り組むべきは、通称使用を認めるかどうかの基本方針を明文化し、就業規則や社内マニュアルに反映することです。使用できる範囲(名刺・メールアドレス・その他表示名など)や、届出のフロー、戸籍名との使い分けに関するルールを定めておくと、現場での混乱が防げます。
また、通称使用を申請する際には、「通称使用申請書」や「同意確認書」を用意し、本人の意向と企業側の対応方針を明文化しておくと安心です。
次に、人事労務関連のシステム・ツールの運用方針も見直しましょう。例えば、以下のような設定が求められます。
・勤怠管理システムや給与計算システムでの氏名の表示・出力方法
・メールアカウント、チャット表示名、名刺などの通称表示と実名との対応表管理
・データベース上は戸籍名で統一しつつ、画面表示では通称を使う運用の検討
すべての情報が自動連携されるシステムを使っている場合は、切り替え対応が難しいこともあるため、システムの販売業者や、クラウドシステムの設定が可能な社労士・税理士との連携が効果的です。
通称使用の制度があっても、現場の理解が得られていなければ逆にストレスや誤解を生みかねません。対応する管理職やメンバーに対し、「なぜ通称使用に対応しているのか」「戸籍名との使い分けに注意が必要な場面」などを研修や共有資料で説明することが、職場の心理的安全性の確保につながります。
また、社内イントラやポータルサイトなどで制度の存在を告知しておくと、必要な社員が気づきやすくなります。
通称使用の導入や運用は、制度設計や文書作成、社内調整に加えて、法令との整合性を確認しながら進める必要があります。これらを社内だけで完結するのは難しく、社労士との連携が効果的です。
社労士は、労働契約、社会保険、給与計算といった法的要素を含む手続きに精通しており、通称使用によって起こりうるリスク(手続きミス・法令違反・個人情報保護など)を事前に洗い出すことが可能です。特に以下のような場面で専門性が発揮されます
・就業規則・社内規程の整備
・各種届出書類と通称使用の整合性確認
・労基署や年金事務所への対応
通称使用に関する申請や相談は、再婚・事実婚・パートナーシップ制度など、個人の事情が複雑に絡むケースも多く見受けられます。法律上の夫婦でない場合であっても、企業として柔軟かつ公平に対応する必要があります。
例えば、社会保険の扶養では、婚姻関係がなくても一定の条件を満たせば扶養に入れるケースがあるなど、制度の運用と一般的な認識とのギャップがあります。こうした誤解やトラブルを防ぐためにも、社労士が第三者的立場でアドバイスを行うことで、公平性と信頼性が担保されやすくなります。
また、ハラスメント対策の一環として通称使用を位置づける場合や、ダイバーシティ推進の観点から全社的な研修を企画する際にも、社労士による支援は心強い存在になります。
通称使用に関する相談は、在籍社員だけでなく採用や内定者対応の段階でも発生します。例えば「選考時から旧姓で応募していたが、内定書類は戸籍名で統一すべきか?」「内定通知書にどちらの氏名を記載すればよいか?」といった実務上の判断が求められます。
こうしたケースでは、社労士が雇用契約書・内定通知書などの氏名記載ルールを助言するとともに、候補者への説明文書(例:「氏名表記に関するご案内」など)の作成支援も行うことができます。このように、採用段階から一貫した配慮体制を整えることは、求職者や新入社員からの信頼獲得につながります。
選択的夫婦別姓制度の導入はまだ実現していませんが、既に企業の現場には「通称使用」という形でその影響が及び始めています。従業員一人ひとりの価値観やライフスタイルを尊重し、働きやすい環境を整えることは、企業の信頼性やエンゲージメント向上に直結します。
一方で、通称使用の対応には細やかな配慮と、法的リスクへの理解が求められます。就業規則の整備から、届出書類やクラウドシステムの設定や、社内の運用ルールづくりに至るまで、企業の対応は多岐にわたります。
こうした実務をスムーズかつ法令順守で進めるためには、人事労務の専門家である社労士の力を借りることが効果的です。制度設計の段階から社労士に相談することで、現場での混乱や不公平感を未然に防ぎ、企業としての対応力を高めることができます。多様な働き方を支えるために、まずは自社の現状と向き合い、信頼できる社労士とともに「通称使用」への対応を進めてみてはいかがでしょうか。
労務の灯台 編集部
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