日本年金機構の「被用者保険の適用拡大への対応状況」によると、2024年10月の社会保険適用拡大によって、新たに対象となる可能性のある事業所は約54,000件とされていました。このことから、多くの企業で新たな社会保険料負担の発生や手続きの増加、従業員への説明対応といった実務的な影響が広がっているのが現状です。さらに、この改正は2035年まで段階的に対象範囲が拡大し、最終的には企業規模要件が撤廃されることが決まっています。そこで本記事では、2025年時点で対象ではない従業員数(厚生年金保険の被保険者数)50人以下の企業向けに、今からできる準備と対策を分かりやすく解説します。特に、人事労務担当者は押さえておきたい内容となっているので、最後まで確認しておきましょう。
出典:厚生労働省「厚生年金保険における令和6年度収支決算」
社会保険料適用拡大の背景には、年金財政の抜本的な課題が影響しています。厚生年金保険は、会社員や公務員を対象とした「賦課方式」によって運営されており、現役世代が納めた保険料で高齢者への給付をまかなっている年金制度です。企業と従業員が保険料を折半する仕組みのもと、この制度は一見すると安定しているように見えます。実際、令和6年度の厚生年金保険の収支決算では、歳入※と歳出※のバランスは保たれています。
※国の収入・支出は4月から翌年3月までの期間(会計年度)で計算し、この1年間の収入を 「歳入」、支出を「歳出」といいます。
出典:国税庁「財政のしくみと役割」
出典:厚生労働省「我が国の人口について」
この状況の中、社会保険の適用範囲を段階的かつ大規模に広げようとしているのは、日本が直面している深刻な少子高齢化に対処するためです。厚生労働省の資料によると、2040年には65歳以上の人口が全体の約35%を占めるとされており、年金受給者の数は今後も増加し続けると推計されています。
一方で、15〜64歳の生産年齢人口は着実に減少しており、社会保険料を納める現役世代の母数が縮小しています。これにより、年金制度における「支える側」と「支えられる側」のバランスが大きく崩れつつあります。つまり、社会保険適用拡大の背景には、社会保険料を負担する人数を増やさなければ、年金制度が成り立たなくなるという危機的状況があるのです。
2024年10月の改正により、常勤の従業員数51人以上の企業で働く短時間労働者は、下記4つの要件をすべて満たす場合、新たに社会保険の加入を義務付けられることになりました。
①週の所定労働時間が20時間以上
②月額賃金が8.8万円以上
③雇用期間が2か月を超える見込み
④学生でないこと
ただし、②の賃金要件については、最低賃金が1,016円以上の地域では、週20時間働くと自動的に満たされる要件のため、今後、全国の最低賃金が1,016円以上となることを見極めて撤廃されることが決まっています。
また、今後の改正スケジュールは以下の通りになります。
実施時期 | 常勤の従業員数 |
2027年10月 | 36人以上 |
2029年10月 | 21人以上 |
2032年10月 | 11人以上 |
2035年10月 | 1人以上 |
このように、2035年10月からは企業規模要件が撤廃されることが決まっているため、50人以下の従業員数の企業は早い段階での対応が求められます。
制度の背景やスケジュールを理解したら、次に確認すべきは「自社にとって、どれくらいの負担が発生するのか?」という具体的なコストです。コストを見積もることで、対策の優先順位や時期を判断しやすくなります。ここでは、月収や新規加入者数ごとの年間企業負担額のシミュレーションを紹介します。
まずは、短時間労働者1人あたりの企業負担額を、月収別に試算したケースから見てみましょう。
社会保険料の企業負担は、厚生年金保険料と健康保険料を合わせて月収の約15%とされているため、以下のように年間で数十万円単位のコストが発生します。
月収 | 年間企業負担額 |
88,000円 | 約158,400円/人 |
100,000円 | 約180,000円/人 |
120,000円 | 約216,000円/人 |
150,000円 | 約270,000円/人 |
1人あたり年間企業負担額=月収×保険料率×12か月
次に、年間企業負担額を、改正年と企業規模、新規加入者ごとに試算したケースを見ていきましょう。
以下は、月収10万円の短時間労働者のシミュレーションです(保険料率:15%想定)。
改正年 | 企業規模 | 新規加入者数 | 年間企業負担額 |
2027年 | 50人 | 5人 | 約900,000円 |
2029年 | 30人 | 5人 | 約900,000円 |
2032年 | 15人 | 3人 | 約540,000円 |
2035年 | 5人 | 1人 | 約180,000円 |
新規加入者数ごとの年間企業負担額=新規加入者数×月収×保険料率×12か月
コストシミュレーションを通じて、社会保険適用拡大による具体的な企業負担の大きさが見えてきました。それを踏まえたうえで、実際に企業ができる対策はどのようなものがあるのか確認しましょう。ここでは、3つの対策を紹介します。
短時間労働者の社会保険の加入が義務付けられることで、社会保険料による手取りの減少が就業意欲に影響するケースが想定されます。
そこで厚生労働省は、社会保険適用拡大の対象となる短時間労働者を支援するため、3年間の特例措置として社会保険料の負担割合を軽減できる制度を設けました。
制度の概要
・対象企業 :常勤の従業員数50人以下
・対象労働者:新たに社会保険加入対象となった標準報酬月額が12.6万円以下の短時間労働者
・実施期間 :3年間(3年目は軽減割合を半減)
・内容 :企業が労使折半を超えて支払った社会保険料の全額を支援
標準報酬月額 (年額換算) | 8.8万 (106万) | 9.8万 (118万) | 10.4万 (125万) | 11万 (132万) | 11.8万 (142万) | 12.6万 (151万) |
労働者の負担割合 | 50%→25% | 50%→30% | 50%→36% | 50%→41% | 50%→45% | 50%→48% |
出典:厚生労働省「被用者保険の適用拡大について」をもとに一部加工して作成
以下は、月収8.8万円の短時間労働者に制度を活用したケースです(保険料率:15%想定)。
月収8.8万円 | 制度活用前 | 制度活用後 |
負担割合(従業員:企業) | 50:50 | 25:75 |
従業員負担額 | 約13,200円 | 約6,600円 |
企業負担額 | 約13,200円 | 約19,800円 (約6,600円は全額支援) |
この制度を活用することで、企業に対しては、労使折半を超えて多く支払った社会保険料は全額支援されるため、実質の企業コストは増えません。また、従業員に対しては、この支援で社会保険料の負担額が軽減されても、将来の年金受給額が軽減されることはありません。
このように、就業調整を減らすための保険料調整を活用することで、新たに社会保険の加入対象となった従業員の「手取りが減る不安」を軽減しつつ、就業調整の抑制につなげることが可能です。制度の活用には企業からの申請が必要なため、対象となる企業は早めに制度の内容を確認しておきましょう。
先程紹介した、就業調整を減らすための保険料調整は実施期間が3年間と制限されていることから、その先の4年目以降の対策まで考えておく必要があります。そこで、もう一つの対策として有効なのが企業型確定拠出年金の導入です。
企業型確定拠出年金には4つの制度設計があり、その中でも「選択制」と呼ばれる「選択制確定拠出年金」では、給与を分割し、その一部を掛金とすることが可能で、掛金は社会保険料や所得税の対象外となります。また、企業型確定拠出年金の加入資格は、原則70歳未満の厚生年金被保険者であることから、社会保険適用拡大によって新たに厚生年金の被保険者となった短時間労働者へ活用できる制度としても適しています。
社会保険適用拡大を企業型確定拠出年金で対策する方法は、下記のコラムで詳しく紹介しています。
社会保険適用拡大は企業型確定拠出年金で対策できる?
社会保険適用拡大によって、短時間労働者が新たに社会保険の加入対象となった際に、労働条件の変更をしない場合、従業員は手取りの減少、企業はコスト増加となり、労使ともに負担が生じてしまう可能性があります。
しかし、年収の壁対策として拡充された、キャリアアップ助成金の「短時間労働者労働時間延長支援コース」を活用することで、従業員は労働条件の改善、企業はコスト負担の軽減が期待できます。「短時間労働者労働時間延長支援コース」は、労働者を新たに社会保険に加入させるとともに、収入増加の取り組みを行った事業主に助成されるものです。
出典:厚生労働省「年収の壁対策 労働者1人につき最大75万円助成します!」
特に、小規模企業(常時雇用する労働者の数が30人以下である事業主)において大きなメリットを発揮し、労働者1人につき最大75万円の助成金が支給されます。
また、この助成金の対象となる労働者は、社会保険の加入日の6か月前の日以前から継続して雇用され、社会保険の加入要件を満たさない条件で就業していた者とされています。そのため、社会保険適用拡大のスケジュールにあわせて、早い段階から助成金の活用を前提にした準備計画を立てておくことが重要です。
社会保険適用拡大に向けた対応では、就業調整の抑制や制度導入、助成金の活用など、企業が直面するテーマは多岐にわたります。そして、それぞれの施策には法律や制度の正確な理解、申請手続きにおける実務対応力が求められます。社会保険の加入要件の判定、複雑な申請書類の作成、助成金の対象条件のチェックといった業務は、制度ごとに異なる細かなルールや期限が存在するため、実務担当者だけで対応しきるのには限界があります。
こうした状況において、社会保険に関する専門家である社労士との連携は、制度対応の質とスピードを高める有力な手段となります。具体的に社労士は、次のような場面で企業を支援することができます。
・社会保険の加入対象の判定や手続きの代行
・助成金の制度選定、要件精査、申請書類の作成支援
・雇用契約書や就業規則の見直し提案
・制度設計やコスト最適化に関する助言
・制度導入に向けた社内向け説明資料の作成・説明会の実施支援 など
特に、社内制度の整備を視野に入れる場合、単発の手続き対応だけではなく、社労士と中長期的な関係を構築していくことがポイントになります。社会保険適用拡大のように中長期的な対応が求められる制度においても、改正スケジュールを先読みし、対応の優先順位を見極め、計画的に進める体制を築くことが可能です。このように、社労士と連携することで、制度対応を「負担」ではなく「成長の機会」へと転換していくことが期待できます。
社会保険適用拡大の改正によって、2035年には企業規模要件の撤廃が決まっています。この改正は、年金財政を抜本的に見直すための政策ですが、企業にとっては新たな負担が伴います。特に、これから対象となる常勤の従業員数50人以下の企業にとっては、適切な準備と対策が求められます。
まず、改正スケジュールやコストシミュレーションを通じて、どれだけの負担が企業にかかるかを把握することが重要です。特に、短時間労働者への適用が拡大することで、企業は従業員の手取りの減少を抑えつつ、企業負担も軽減する方法を見つけなければなりません。そのための手段として、就業調整の抑制や、企業型確定拠出年金の導入、キャリアアップ助成金の活用など、様々な対策を検討する必要があります。
さらに、こうした複雑な対策に正確かつ迅速に対応するためには、社会保険の専門的な知識と経験を持つ社労士との連携が効果的です。社労士は、社会保険の加入判定や手続きの代行、助成金の申請サポートなどを通じて、企業負担を軽減するとともに、今後の法改正に備えた最適な制度設計を支援します。これにより、企業は短期的な対応に留まらず、長期的な視点で成長戦略を立てることが可能になります。
社会保険適用拡大は、単なる企業負担の増加ではなく、企業が従業員と共に成長し、社会的責任を果たすための機会ともなり得ます。この改正をチャンスと捉え、適切な準備と対策を進めていきましょう。
労務の灯台 編集部
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